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生きることと 死ぬことは同じ

老若男女関係なく、誰にも平等に、しかも100%確実に来る未来。

それが「死」です。それなのに、それらが忌み嫌われることから、あまりにも偏った、そして少なすぎる情報のために、必要以上に悲しむ人、苦しむ人がいる現実があります。そこで、私も同じいずれ死ぬ存在として、

ハウツーとは少し違った視点からお伝えします。

「月刊きらめき+」への金子稚子の寄稿記事を転載しています。

第三回

2016.きらめきプラスVol.45「文月」掲載

 「オワコン」という言葉をご存知でしょうか?

 インターネットで流通する、いわゆるネットスラングですが、意味は「終わったコンテンツ」。つまり、非常に流行したコンテンツ(あるテーマの文章やゲーム、映像など)が、そのうちに人に飽きられ、すっかり廃れてしまったことを言います。

 熱狂度と廃れた時とのギャップは激しく、「オワコン」は、半ば揶揄的に使われる言葉と言っても過言ではありません。

その主張はオワコン!?

 某医師による「がんは治療しない方がいい」という主張は、約3年半前に亡くなった夫の闘病中にも盛んに言われていました。病気がわかった時には命の危機に直面していた私たちにとって、治療をするもしないも、治療法はないと多くの医療機関から言われていたので、ほとんど検討する気にもなりませんでした。が、夫の死の直後、近しい複数の知人からこの医師の考えをどう思うか、亡夫は何か言っていたかと、おそるおそる聞かれたことを思い出します。

 私自身は、この医師の主張から多くの人が受け取ってしまうメッセージ……すなわち「医療の否定」については、強く反対したいと、その時にもお答えした記憶があります。

 なぜなら、亡夫が最後まで「したいこと」をできたのも、100%医療の支えがあったからだと理解しているからです。

 また、夫の死後、主治医のみならず、私が関わる一般社団法人日本医療コーディネーター協会、さらに、本誌でも連載なさっている長尾和宏先生など信頼できるお医者さまとの出会いを通して、この医師の主張を医学的な立場から、おかしいこと、正しいこと含めて教えていただいたほか、何より、私自身がこの医師の講演に実際に出かけて話を聞き、感じられた人間性からも、到底受け入れられないと判断していました。

 要は、この医師の「がんは治療しない方がいい」という主張は、私の中では“オワコン”になっていたのです。

情緒的な発信への嫌悪感から

 ところが最近、このコンテンツはゾンビのように復活しました(と、感じました)。これで何回目の復活でしょうか。

 新しくがんにかかった人、いわばがん患者の新人さんには、このコンテンツが魅力的に映るのかもしれません。

 がんの確定診断に至るまでの検査からして、すでに身体的苦痛、精神的苦痛でかなり参ってしまいます。その挙げ句に提示される治療法……。これ以上はもういいと、まだ何も始まっていない段階から思う人もいるでしょう。

 そして、テレビ、書籍、インターネットなど、あるいはCMですら、さまざまなカタチで流布される「闘病体験」。もちろん、これにより励まされる人も大勢いますが、一方で、こんなことはできない、したくない……と思う人もいます。

 私は、こうした“情緒的な闘病体験の発信”に対する嫌悪感から、自分は同じように見られたくない、同じように扱われたくないと感じる人も少なくないだろうとも思っています。亡夫も同じでしたし、また多くの死別経験者の話を伺っていても、亡くなった方や遺されたご家族もそう感じていたことを確認しています。

 このように、批判を怖れず書きますが、闘病という「生き方」を美しく情緒的に発信されればされるほど、その光に対して、心の中にどうしようもなく真っ黒な影が生まれることも、知っておいていいのではないかと思うのです。

 某医師による「治療しない方がいい」という主張には、辛く苦しい治療から逃れたいという気持ちはもちろん、こうした影の部分に巧みに入り込む魔力のようなものがあるのかもしれません。

「死に方」に生まれた失望と後悔

 医療を否定する。私が知る中で、もっとも厳しいと言葉を失ったのは、こんな人でした。

 その人は、ご主人をがんで亡くした後、ほとんど間を置かずにご自身もがんにかかり、何が理由かはわかりませんが、診察室で医師と怒鳴り合いのけんかをした挙げ句、一切の医療を断ちました。治療が十分できる容体だったにも関わらず。そして数年後、がん末期の苦しみにのたうち回りながら(しかも、年頃のお子様も同居されている状態で……)、亡くなったのです。

 私はこの話を、この人の周囲にいた人たちから伺うことになりました。死の直後だったこともあり、同じ病気で闘病する人からはこの人への怒りを、関わっていた医療関係者からは深い後悔を伺うことになりました。

 闘病中は、医療に頼らない“生き方”を体現して、多くのがん患者に希望を与えていた存在。その衝撃の大きさが痛いほど伝わってきました。

 「あのような生き方ではダメだってことなの! 裏切られた!」

 「医療に携わる者として、医療サイドからきちんと病気と対するように、もっとアプローチできたのではないか……」

 怒りと後悔が激しく、時に涙ながらに次々と語られていく中で、私は死ぬことも本当に難しいと感じていました。

 この人が死んだから激しい感情が寄せられたのではありません。いわば「死に方」に、失望と後悔が生まれていたのです。一切の医療を断っていたにも関わらず、この人は最後の最後に、耐えきれない痛みを緩和する医療を求めました。それが間に合わなかったのです。

「死に方」を通して「生き方」を伝える

 治療をするもしないも、どのような治療をするかどうかも、ご自身が決めればいいと思います。いや、決めるべきです。

 ただ、命に関わる重大な医療の選択には、「信頼できる人から」「直接(会って)」「情報の提供を受ける」ことを強くお勧めします。

 どんなにテレビや雑誌、インターネットで騒いでいても、どんなに本が売れていても、それは参考程度にしておいた方がいいでしょう。情報の発信者は、自分だけに向けて発信しているわけではありません。

 そして、目の前のその人が信頼できるかどうか。この判断には、それまでの全人生をかけることになるはずです。それこそ、命がかかっているのですから。

自分が何を大切にしてきたのか、命がかかる選択を前にした時、それまでの“生き方”が鮮やかに立ち上がってきます。そこには、情緒的なきれいごとは一切存在できません。でも、それこそが、大切な人に遺せる大きなものであることもたしかだと思います。

 「死に方」を通して、「生き方」を伝えられる。それも、この世の最後であるが故に、非常に強い印象を残せます。真の終活の心髄は、ここにこそあると私は考えています。

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