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生きることと 死ぬことは同じ

老若男女関係なく、誰にも平等に、しかも100%確実に来る未来。

それが「死」です。それなのに、それらが忌み嫌われることから、あまりにも偏った、そして少なすぎる情報のために、必要以上に悲しむ人、苦しむ人がいる現実があります。そこで、私も同じいずれ死ぬ存在として、

ハウツーとは少し違った視点からお伝えします。

「月刊きらめき+」への金子稚子の寄稿記事を転載しています。

第二回

2016.きらめきプラスVol.45「水無月」掲載

 本稿を書いている今、東京は桜が満開です。

 私は、この時期の桜を、ほぼ毎日のように撮影しています。毎日毎日、ある枝を定点としてずっと記録し続けていると、桜の変化を目の当たりにすることができるからです。

 しかし、桜の木を一年を通して眺めていると、変化は何も花の時期だけにあるのではないとわかってきました。

 桜の一年から、私は人の一生を学ばせていただいていると思っています。

桜の一年、人の一生

 真夏、桜は青々とした葉をいっぱいに繁らせています。青々と書きましたが、青黒いと言った方が近いかもしれません。夏の暑い盛り、この青黒い葉は涼しさを伝えてくれますが、桜の木全体を見ていると、自らの葉の重さに息も絶え絶え。  枝も地面に着きそうなくらいに下げて、苦しそうにすら感じます。

 最初にこの姿に気づいた時、私はふと40~50代の働き盛りの世代を思い浮かべました。エネルギーに満ち、たくさんのものを手にし、社会にも大きく貢献できますが、でも、辛く苦しいことも多い……。家族、仕事、社会的立場と背負うものがたくさんあり、それらが充実感を得られると同時に重責でもあって、枝の下の暗さからも、光と影のコントラストがより鮮明に感じられます。

 しかし秋になると、葉は紅葉し、パラパラと落ち始めます。枝は寂しくなっていきますが、でも苦しそうに下げていた枝はまた上に上がり、暗かった木の下には、太陽の光が届き始めます。寂しいというより、重責から解放されて、むしろ明るい気配が桜からは伝わってきます。

 冬。周囲の木が葉を落とし、静かにしていても、桜はちょっと違います。2月もまだ寒い時期に、さっさと小さなつぼみを枝先に用意し、開花に向けての準備を着々と進めます。年間を通して、この時期の桜が一番エネルギーに満ちているのではないかと思うほどです。

 そして、開花。その時、桜は文字通り絶句状態になります。溜めていたエネルギーを一気に解放させ、大きくピリオドを打ったという印象を受けます。

桜が死の「余白」で行うこと

 一年を通して桜を見ている私にとって、桜の開花とは、死の象徴そのものです。しかしその「死」は、一瞬ではありません。花が咲いてから散るまでには、時間があります。開花=死というピリオドを打った後の、ある種の余白と言っていいのかもしれません。

 花が散るのも、一斉ではありません。同じ枝先であっても、花の開花は少しずつずれていて、そうして花を咲かせつつ、同時に新芽が顔を出し始めます。

 毎年、この見事なほどの、死と新しい世代の重なり合った交代劇を目の当たりにして、私は心を激しく動かされます。桜は咲いて散って終わりではない。

 必ずその死の余白に、次への引き継ぎを用意している。その切れ目のないリズムに圧倒的な安定感を感じて、深い安心感に包まれる思いもします。

 

人の死に「余白」はあるのか

 

 非常に長い前置きになってしまいました。

 実は今、私たちは親の看取りをテーマにした大判のカラー本を制作しているところです。雑誌と書籍のいいとこ取りをした“ムック”と呼ばれる形式の本です。今号が発行される頃に発売になるでしょう(『大人のおしゃれ手帖特別編集 親の看取り』、宝島社発行、5/21発売、780円)。

 この本のために、紹介されたある有料老人ホームに取材に出かけました。そして、このホームの死への対し方に、とても感動した次第です。

 医療サービスはもちろんのこと、福祉サービスも、患者・利用者の死とともにその使命を終えます。厳しい言い方をしてしまえば、そうでなければやっていけないからです。サービスを待っている患者・利用者は、今この瞬間にも大勢います。悠長に一人ひとりの死の「余白」に付き合っている余裕はありません。

 だから、自宅で亡くなっても、介護保険サービスで借りていたレンタルベッドは、その日のうちに回収されることも多いでしょう。施設であっても、病院と同じく、すぐに部屋を空けてくれ、となります。

 しかし、このホームは違いました。容体により救急搬送された病院で亡くなったとしても、どうぞこのホームに帰ってきてください、という姿勢です。場合によっては、賃料は支払いますが、ご遺骨をその方の部屋に安置しておくこともできるとのことでした。

死を境に分断される

 

 正直、有料老人ホームだからできることです。公的な介護保険サービス内、医療保険内で行えることではありません。

 でも、そのホームの姿勢からは、死の「余白」が感じられました。死とともにサービス終了。はい、次は葬儀。などという分断は、そこにはありませんでした。

 現在の日本では、医療、福祉、それから葬儀と、死でサービスが分断されています。死を境にして、関わる専門家ががらりと変わってしまう。それぞれのところで、どれほど心を尽くしてもらっても、その分断が死別直後の家族にはかなり厳しく感じられることも少なくありません。

 しかし、その解消を各専門家に要求するのは筋違いです。

 サービスの分断による境目を曖昧にできるのが、死の「余白」です。そして、それをつくれるのは、他ならぬ故人の家族を含めた周囲の人たち。死は医療、葬儀は葬儀会社と、専門家に任せればOKとばかりにしていたら、きっと「余白」を感じることもできないでしょう。

 一人の人間が亡くなった……それが喪失だけを意味するのではないことを、多くの死別経験者が知っているはずです。

 悲しみのために気がつかないだけで、人の死の余白においても、新しい何かが、静かに生まれているのかもしれません。

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