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生きることと 死ぬことは同じ

老若男女関係なく、誰にも平等に、しかも100%確実に来る未来。

それが「死」です。それなのに、それらが忌み嫌われることから、あまりにも偏った、そして少なすぎる情報のために、必要以上に悲しむ人、苦しむ人がいる現実があります。そこで、私も同じいずれ死ぬ存在として、

ハウツーとは少し違った視点からお伝えします。

「月刊きらめき+」への金子稚子の寄稿記事を転載しています。

第一回 偏っている&少なすぎる死に関する情報

2016.きらめきプラスVol.44「皐月」掲載

 はじめまして。金子稚子と申します。

 今号から、私が代表を務める活動を通して、一般市民の立場から、わかってきたこと、理解できたことなど、読者の皆様にぜひお伝えしたいことをこちらに書かせていただくことになりました。どうぞよろしくお願いいたします。

「死」に関する情報提供を

 私たちが行う活動は、ライフ・ターミナル・ネットワークと言います。「ターミナル」と聞いて、どんなことを連想しますか?
 鉄道がお好きであれば、たくさんの路線が集中する駅を連想する人もいるかもしれません。しかし、医療現場で「ターミナル」と言うと、それは終末期。つまり命の終わりが近い時期のことを指します。
 ちなみに、最近ではこの時期のことを指す言葉として、「エンド・オブ・ライフ」なども登場してきています。
 ともあれ、言葉にそれぞれ種類はありますが、私たちは、「死」の前後に関する情報提供と心のサポートを目的に活動しているということをお伝えできればと思います。
 では、なぜそんな活動をするようになったかと言えば、夫の闘病と死に併走することで(前号「手記」をご参考ください)、死に関する情報があまりに偏っている&少なすぎることを痛感したからです。

それは“あなたがしたいこと”

 たとえば、もう先が長くないと医師から言われた人に対して、あなたはどんな風に接しますか? どんな声をかけるでしょうか?
 まだ20代の乳がん患者さんに伺ったことがあります。思い切って友人にがんを告白したところ、次の瞬間に「思い出づくりに、旅行に行こうね」と言われた、と……。
 これはさすがに、まだ年若い人が言ってしまうことだと、読者の皆様はお感じになるかもしれません。では、改めて伺います。
 友人の命がそれほど長くないと知った時、皆さんは、呼ばれてもいないのに、その友人にお見舞いと称して会いに行ったりしませんか? あるいは、頼まれてもいないのに、この治療法がある、あの病院に行ったらどうかと、あれこれ提案したりしませんか?
 何が悪い? すべて友達のためを思ってしていることなのに、とお感じになる方もいるかもしれません。
 でも、私はあえてこう問いかけたいと思います。
「それは、“あなたがしたいこと”ではないでしょうか?」

一方的な「さよなら」

 いくら医学的に見て死が近い状態にある人でも、すぐに死を受け入れて、友人知人にお別れを言いたくなるわけではありません。あるいは、すべての患者が、諦めたくないと、できるかぎりの治療法を探して、それにチャレンジしたいわけでもないのです。また、お別れを言いたい、諦めたくない、そう思っていたとしても、その気持ちは、大きく揺れ動きます。日々、というか時間単位、分単位で、刻々と移り変わっていきます。
 それなのに、望んでもいない“友人のお見舞い”がそこに来てしまうのです。家族の立場からすれば、それはもはや暴力に等しいほど、残酷なものです。
「ああ、この人は私に、お別れを言いに来ている……」
 死が近い自分ですら、これほどまでに大きく気持ちが揺れ動き、恐怖に近い感情も加わって耐え難い状態なのに、あれほど仲のよかった友人から、一方的に「さよなら」を言われていると、そうわかってしまうのです。
 いや、違う。私は励ましにいっている、という人もいるでしょう。
 残念ながら、その励ましも、伝わっていない場合が少なくありません。 というか、その励まし自体が、これは闘病の時からそうですが、とても残酷な行為でもあると言えるからです。これも、いつかお伝えできたら、と思いますが……。

死とは、本当にそれ「だけ」?

 よく思い出してみて下さい。みなさんは、そうした接し方を、いったいどこで身につけたのでしょうか?
 情報は、さまざまなメディアから日々発信されています。新聞、テレビ、雑誌、インターネットなど……。報道番組やニュースショーや、あるいはドラマ等を通して、それらは湯水のように、さまざまな表現方法をとって、しかも何度となく繰り返されています。
 結果、いつしか無意識のうちに、それらは確実に自分自身の中に「常識」として染み込んでいくことになるでしょう。
 つまり、死に近い人にはお別れを伝えに行く「べき」だ。どんなに厳しい容態でも、最後まで諦めずに挑戦し続ける「べき」だ。命とは「生きてこそ」のものであり、だから生きることは素晴らしく、死は「避けなければならない」ことだ……。
 でも、本当に、それ「だけ」なのでしょうか……。
 個人的にも好きなのですが、「ターミナル」駅とは、行き止まりの終着駅でもあります。しかしそれは、新しい旅のスタート地点である始発駅に、いつか必ず変わります。
 死を「終わり」としてとらえるのではなく、一つの通過点とした時に見えてくるもの。これらについても、お伝えできたらと思っています。


 

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